今は消えつつある茅葺の山門。
古くから伝わる茅葺のある風景は、私たち日本人の心の故郷です。参拝に訪れる方は、必ずここで足を止め、ほっと息をつかれます。
忙しい日常から少しだけ離れて、ゆっくり心を癒してください。
茅葺の山門
袈裟御前戀塚
袈裟御前の首塚と伝えられる、高さ数尺の宝篋印塔。鳥羽伏見の戦いで堂宇は焼失しましたが、明治の末期ごろに再建されました。
そのときから、この塚は少しだけ西の方角を向いています。
そう、文覚の眠る、高雄の山の方角を。
もちろん、高雄山では、今も文覚の墓が恋塚寺の方角に向かって建っているということです。
木像(文覚・袈裟・渡)
●文覚上人(盛遠):
平安末期から鎌倉初期の真言宗の僧。俗名遠藤盛遠。
弟子には文覚上人を師として生涯離れることのなかった学僧浄覚上人、高山寺をおこした高僧明恵上人らがいる。
平家物語によれば、文覚は後白河法皇のところにおしかけ、管弦が行なわれている席でむりやり勧進帳を読み上げ寄進を強要し、 警備の武士と格闘のすえに追い払われ、罪人となる。それにも懲りず寄進を求めて止まなかったため、伊豆に流された。
伊豆流罪5年後の1178年(治承2)に赦されて神護寺に帰り、ふたたび後白河法皇に訴え、同じく伊豆に流されて知り合っていた源頼朝の後ろだてもあって、寄進を受けるのに成功。大規模な伽藍の復興を実現した。
● 袈裟御前:
平安末期の女性。北面の武士渡辺渡の妻。母は衣川。
院の北面の武士遠藤盛遠に誤って殺され、盛遠は出家して文覚と称した。 この事件は、盛遠に横恋慕された袈裟の窮余の策による身代わりと解されて、その貞節ぶりが伝承されてきた。
●渡邊渡:
北面の武士。袈裟の夫。出家後の事は不明。
恋塚寺絵伝
当寺の縁起を描いた絵巻。作者は山脇秀故です。
古くから伝わるものだけに破損も激しく、長く修理中となっておりました。
2004年3月末に修復も完了し、ひときわ鮮やかな物語をお楽しみください。
袈裟御前肖像画
土佐光信の筆による袈裟御前の肖像画。